未解決の人間

マオ・レゾルビーダにならないように。

親戚の自殺とぼっちの母と

 ぼくの親戚が数年前に自殺した。

 

それで、元から少なかった母の身内は、ほとんどいなくなってしまった。

 

母に近い血縁で男で残っているのは、ぼくぐらいなもので。

 

おまけに母は友達と出かけたりすることもあまりない。

 

大体お家のソファでテレビを見ながら横になっている。

 

最近では小説を読む代わりにスマホでゲームするのも覚えたようだ。

 

 

ぼくの夢が(というにはあまりにも薄っぺらいものだったかもしれないが)、断たれた時点で、割と死にたかった。

 

でも、死ねなかった。

 

だから、3年経った今でも、のうのうと生きている。

 

その間、大学生として、友達のいる人並みの生活をそれなりに楽しんだ。

 

それでも、時々死にたくなる。やっぱり社会は嫌いだ。

 

死にたいけど、ぼくがいなくなったらどうなるかを一応考えると、そうもいかなくなる。

 

母がどれだけ傷つくか。妹はどんな気分か。友達は。

 

自分が相手の立場だったらと考えたとき、確実に人生に暗い影を落とすことは目に見えている。

 

呪いである。

 

人に呪いをかけてまで死ぬ理由はない。

 

かといって、まともに前向きに生きる気力もない。

 

希望は日々失われていく。

 

不摂生な生活に身を浸しながら、今日もなぜか生きている。生かされている。

一人遊びの弊害

 中高時代、友達がいないから一人で遊んでいる時間が長かった。

 

そうなると、いかに一人で時間を潰すか、いかに一人で楽しむか、が大事になる。

 

そこで、一人で公園の砂場で遊んでいるとか、プログラミングやるとか、クリエイティブな遊び方でもできたらよかったのだが、

 

ぼくがハマってたのは主にゲームと2chだった。

 

凡人丸出しである。

 

とはいえ、友達がいない癖に遊ぶのは好きなものだから、

 

自分なりに楽しい一人遊びを模索した。

 

ゲームに関して言えば、オフラインでの対戦会に入り浸ったり、

 

ネットゲームを中高生なりにやり込んだり、

 

シミュレーションゲームは自己満足のために延々と何時間でもしょうもない作業をしたり。

 

漫画・アニメ・映画も、いっぱい見た。

 

そうしたら、たいした感性のないぼくでも、

 

「自分がこれを好き!」という感覚は、磨かれていった。

 

喜ぶべきことなのだろうけど、

 

でもその結果、ワンピースを素直に楽しんで読めない好きとか言えない、

 

捻くれたサブカル被れ野郎の一丁上がりである。

 

 

 

そんな風に自分の好きに拘りを持ち始めたものだから、

 

自分が面白くないものを面白がってる人たちが、好きくない。

 

好きくないから、関わりたくない。

 

だから、社会と関わりたくない。

 

嫌いだ嫌い。何が面白くてお前ら生きてんだよ。

 

好きじゃないと嫌いは違うはずなのに、どうしてこう思ってしまうのか。

 

 

 

しょっぱいぜマイライフ。

周りの人を見下している自分

 自分がなんでこんなクソなのかと言えば、

 

客観的に見て、周りの人を見下しているからだと思う。

 

自分では「良い人たちに囲まれてるな〜」とか思ってても、

 

自分と同じとは思っていない。

 

傍観者として常に一歩引いて高みから人を判断してしまっている気がする。

 

その「特別な自分」ポジションから降りなければ、モテないままだろう気はするのだが、

 

男友達と付き合っていく分にはそれでもやっていけるのだから、そこまで意識はされなかったのだ。

 

ここまでわかってても、

 

じゃあ具体的にどうしたらいいのかというと、

 

思いつかない。

 

どうしたら「特別な自分」を捨てられるのか。

 

人間みんな個性があるのが当たり前じゃん、って思考が無意識に先行してしまう。

 

本当はみんなたいして違わないはずなのに。

 

 

 

客観的に受け入れられる行動、社会人としてふさわしい行動をすべき、

 

ってのが答えなのだろーか。

 

同じ立場に立つというのはそういうことだ。

 

でも、そんなの何が面白いんだ???

 

それ面白いか???

 

相手の反応を想像して振舞う、

 

という言い回しの方がマシな気がする。

 

相手の反応を想像して振舞う。

 

つまりは思いやりですね。

 

ぼくは思いやりのないクズ人間です。

 

他人の気持ちなんか、わかってもわかりたくないよ。

あなたの送るその言葉が

 スマホであなたが送るその言葉、一つ一つが、

 

あなたが今までどんな扱いを受けてきたか、どんな人だったか、どんな経験をしてきたのか、物語る。

 

表面上取り繕っても、そういう意識しづらいところから、伝わるのでしょう。

 

彼女のいたことのない人は、彼女との自然なコミュニケーションがわからないし、

 

まともに社会人やったことのない人は、まともな社会人としてのコミュニケーションがわからないでしょう。

 

初めてだから当たり前?

 

それが通じる世の中ならよかったのに。

 

ああ消えたい。

ウメハラコラム 拳の巻

 読んだ。

 

「バランス・大局観が大事」

 

「結論を下すのが早い、ミスを引きずらない方が格ゲー向きの性格」

 

「そういう経験を重ねて思ったのは、無償の努力ができる人間ってのは無敵だなってこと。」

 

「友達がいなくて悩んでるやつ。一生懸命になれるものがないから、嫌な顔してる。人に好かれたきゃ、見返り求めず努力してみろっての。」

 

「いやね、人間ってすごいんですよ。強く意識してやろうということを繰り返すうちに、ちょっとの意識でできるようになり、やがて無意識にできるようになる。」

 

「強いやつほど細かいことは後回しにする。」

 

「得をしようと思えば損をする可能性があるんだと受け入れることだね。(中略)格ゲーってのは理想と現実のバランスをいかに取っていくかっていうゲームだから。」

 

 

「勝ってるから流されないってのは違う。俺が考えを曲げなかったのは、信頼できる友人がいるからとか、自分に才能があると思ってたからじゃない。自分の内側から湧いてくるやる気に絶対的信頼があったからなんだよ。結果や友人関係、他人の評価っていうのは状況や運で大きく変わってしまう。そんなもん信じて、結果が出なくて苦しいだの、人に裏切られただの言ってんだからどうしようもねーよ。情けないです。馬鹿です。」

「言い過ぎ、言い過ぎ(笑) でも、言いたいことはわかった気がする。時代や環境に左右されない、普遍的なものに信頼を置けば、孤独にも耐えられるってことだよね?」

「そう!そういうこと。まあ、自分のやる気を普遍的だと信じてる俺は、すごいよねっって言いたかっただけなんだけど。」

「やっぱりそうか。クソが!」

「『ウメハラコラム』なんだからそれくらいいじゃん。ケチ!」

 

 

「『こういう努力をすればこういう成果が出ます』っていうのを鵜呑みにして努力するのなんて、だれでもできる。本当に価値ある努力っていうのは、『どういう努力をするべきなのか?』っていうのを考えることでしょ。世間に広まっている努力をしたところで個性は発揮できないんだからさ。」

「仲良くなるための愚痴」を、やめる。

 人と仲良くなるためのノウハウとして、

 

「愚痴を言い合う」というものがある。

 

もしくは、愚痴を聞き出す、か。要はその類のものだ。

 

「自分から先に自己開示として愚痴を言い、相手も応じて自己開示するからその愚痴を聞いて仲良くなる」というロジックで、これが有効とされているのだと思う。

 

確かに愚痴を聞くことは人間関係において重要な面もある。人に自分の話を聞いてもらいたいときは誰にもあるものだろう。

 

 

 

しかし、このロジックには、少し考えるだけで二点、穴がある。

 

「自分が自己開示すれば相手も自己開示する」という部分がまず怪しい。

 

たとえば、二十代のフリーターの男が五十代の所帯持ちの男と話すなんて場合。状況が違いすぎて、そもそもお互いに自己開示が必要なレベルで相手を理解しようという気持ちが湧くがどうか。

 

理解されないことが見えている相手と、人はあまり話したくないものだと思う。だから年齢や境遇が近くないと話にくさを感じるのだ。

 

次に、「愚痴を言えば自己開示になる、プラスになる」というところが怪しい。

 

普通に考えて、他人の愚痴を喜んで聞きたいなんて人はほとんどいない。

 

人間みんな自分のことだけでいっぱいいっぱいなのだ。

 

自分が自己開示だと思って言っていても、相手からしたら鬱陶しいだけなことさえあるかもしれない。

 

 

かくいうぼく自身が、この安易な手段を日常的に使ってしまっていたので、少し心当たりがあるのですが。。。

 

自分の欲望の赴くままに愚痴を言えばお互いハッピーという、すごく安易な方法なわけですけど、

 

やっぱり安易な以上いつまでもやり続ける手法ではないなと思います。

 

なにより、仲良くなるために愚痴を言うとか聞いてあげるとか、かっこ悪い。

 

 

 

愚痴と見做されかねないこと言うなら、状況を踏まえて、慎重にやるべきなんでしょうね。